FC2ブログ

ジジイの生活向上委員会

Top > 歴史 > 鮮卑、中華思想の最初

鮮卑、中華思想の最初

蒸し暑うぅ~~(>_<)
引篭もりには辛い季節の到来です。オッサンの体が自然シェイプアップ(シェイプダウンかも^^;)する季節でもあります。。。

さて、とりとめない考察を続けていても前に進まないので・・・

とりとめないけど記事にしていこうと思いました^^

では!!

まずは鮮卑拓跋珪が北魏を興します(386年)。
この時代には仏教は中国で広まっていました。

周辺の鮮卑族を吸収し強大化していき匈奴も倒して華北を統一するのが439年。これが五胡十六国の終焉でもあります。


敗れた匈奴も兵力を吸収しながらヨーロッパ侵攻に向かいます。
やがてフン族としてヨーロッパを蹂躙し、黒い貴族と呼ばれるベネチアと歴史的対峙をするのですが・・・

このお話は別の機会に^^;;;


さて、、、

統一北魏は三代目の太武帝の時、宿敵匈奴や柔然を退けて北燕を滅ぼすのです(北朝の始まり)。
そして、北辺の防衛を確固として南征を開始するのですが、これを良しとしない盧水胡の蓋呉(こうご)が関中で反乱の狼煙をあげます。

これを制圧する為、長安に向かったときに長安の寺院から大量の武器を発見し、これがきっかけとなり廃仏の詔を発します。

自らの出自を騎馬民族に置いていた太武帝にとっては漢訳仏教より血の禁忌や肉食禁止などしない神仙思想の道教を保護したと言われています。

やがて太武帝は宦官によって暗殺され、宦官宋愛が北魏を乗っ取るのですが、文成帝の時に殺害されます。

結局、少数民族であった鮮卑が大多数の他民族を支配する都合上、当時南朝では衰退していた宦官を積極的に取り入れていったのですが・・・

秦の始皇帝の例でもあるような事態が起こったのですね。。。

文成帝は宋愛や前帝が枯渇させた国富を復活させるべく開墾殖産を奨励し、国内の安定を考え仏教弾圧を廃止するのです。

この時が騎馬民族鮮卑の漢人化の始まりというのでしょうか、騎馬民族の出自を封じ込めていきます(中華思想の始まり)。

「皇帝こそ現今の如来だ。僧徒はみな皇帝に対して礼敬を尽くすのが当然だ(皇帝即如来)。」という北朝仏教の思想の始まりにもなっていきます。

オッサンの私見ですが、対騎馬民族思想として漢人の中で始まった漢訳仏教を文成帝の時に北朝仏教として広めた訳で、この事によりそれまで中国に存在したであろうミトラ教やマニ教や景教、道教が高句麗や百済、新羅や伽耶(任那)に移っていったのではないかと・・・

そしてそれらが海を越えて日本の広域に広まった時代でもあったのではないかと妄想します。

ですので順序を考えると仏教伝来はさらに後の事になるのでは?と考えています。

さて、この時代の日本にあったであろう宗教ですが・・・

現在の神社に近いであろう形式が出来上がるのが、中臣氏の登場以降ではないかと考えますので・・・

古墳を祭った前形態の神道であったのではないかと妄想します。
(神社ができてくるのが古墳時代以降じゃないかと、古墳と神社になんらかの関係があるのではないかとの妄想ですが^^;;;)

当時の日本で広まっていたのはこの古墳信仰と道教の道観や景教やマニ教ミトラの寺院ではなかったのかな?との妄想です。

これが飛鳥の風景ではなかったのか?ですが、、、この地に蘇我氏が仏教寺院が建ち始めるのですね^^(新妄想)

仏教寺院とはいえ当時の寺院は、織田信長の石山攻めでもおわかりのように城ですので、地勢的に有利であろう場所に建つのであろうと妄想します。

このお話は7世紀以降、まだまだ先になりますね。。。

なんとなくダラダラな記事になってしまいましたが^^;;;


当時の宗教事情の妄想がまだまだ続きそうかもです!(>_<)


えへへ


では(^_^)/
関連記事
スポンサーサイト



コメントの投稿

Secret

プロフィール

八爺

Author:八爺
59歳になりました。生活不詳、引きこもり、世間の事は何もわかっていない勉強中のジジイです。

我家にやってきた猫のタマの一年と一ヶ月の記録に同じく「台風からの訪問者」はちの成長と釣りとたまに歴史のお話と愚痴を記事にしていきますので、よろしくお願いします^^;

月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
最新記事
最新コメント
最新トラックバック