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蘇我氏の列島統一記録「安羅王であった継体天皇」

全国的に梅雨入りした途端の凄い雨に見舞われた日本列島ですが、皆さん、大丈夫でしたでしょうか?

三重の釣り友はなんと週3回の釣行を目指すべく、雨天の昨日もアオリイカ狙いで釣行してアオリ1杯の捕獲に成功したとのメールがありました^^

ただ、ピークは過ぎたのではないかという事を本人がいっておりました。


熊野の師匠はたぶん、それどころでない状況かもですが・・・^^;

さて、、、オッサンはお外に出れないので新しい妄想史を繋げる事を考えておる毎日です^^

しかし、さすがにメインキャスト(蘇我氏)の脚本をがらりと替えるのはなかなか進まない状態でもあります(>_<)

ただ、脚本を替える作業中、気になってた継体天皇のお話。。。

これをお話したいと思います(もちろん、妄想です^^)。


日本の古代歴史マニア!「オッサンたちの日本書紀」。


漢文が苦手なオッサンは、迷わず現在訳の日本書紀を・・(あちゃー><)。

ただ、やはり現在訳では読み取れない微妙な解釈も多々存在するようでして・・・

読んでいるうちに「ん・・・、なんだこりゃ!?」なんて感じで読み返したりする部分。。。

今回のお話もそんな部分のお話になります。

第26代天皇である継体天皇は近江で生まれて越の王となったとされ、

応神天皇5世孫であるといわれております。

先帝の武烈天皇が506年に崩御し翌年に即位しますが都である大和の国に入るまで20年を要します(この辺りがキーポイントになります)。

没年齢も記紀でかなりの差があり色々と問い立たされる天皇でもあります。

それと継体天皇(体を継ぐ天皇)という名前なのですが、、、どことなく蘇我馬子と同質のものを感じるのですが、いかがでしょう?

この当時の日本と関わりの深い国をあげると、百済、新羅、高句麗、任那(安羅)、倭とそして日の本(大和?飛鳥の前身)と妄想しています。

ここにでてくる任那は金官国であるとか伽耶とも呼ばれていまして、現在にまで続く一種の竹島問題のような感じもしない訳ではないのです^^;

東アジアの歴史書から作為的に外されてしまった国という印象があります。

任那の那は古代朝鮮語で国を表すのだそうです。あと羅であるとか耶であるとかも同じ意味を持つのだそうです。

それから、任は人と壬に分ける事ができますね。これは古代中国の四柱推命学の陰陽五行の解釈によると大海人となるのだそうです。

大海人皇子ですね^^

・・・

すんません(>_<)今回のお話と関係ありませんです。。。



継体天皇が即位した時代は、この任那が高句麗の南下により疲弊した百済と、徐々に力をつけてきた新羅の両方から挟まれた興亡史があった時代でもあるのです。

百済は倭国を頼り、倭国も百済の要請を受け入れていくのですが、、、

これにより任那でのバランスが崩れていき、そして力をつけてきた新羅が加わり双方から侵食されていくのです。。。

ここで磐井の乱のお話をしたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・wiki

磐井の乱(いわいのらん)は、527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出

兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井がはば

み、翌528年(継体22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱ま

たは王権間の戦争。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・wiki

この説明で正しいです^^(筑紫君磐井は倭国の王ですから)

ちなみに日本書紀に出てくる継体天皇の臣下は一癖、二癖あるような人達ばかりですが・・・(爆)

今回は長くなるので登場しません^^;

彼らが作為的に動いてたと受け取れる部分が多々あります(彼らは陰謀論でいう隠れ多極主義ですね)。



さて、磐井の乱ですが・・・

前にお話した、応神天皇の時に日本の北(日の本)と、南(倭国)が連合したというお話をしましたが、この連合がこの時切れた事を意味します(もっと以前に切れていたかもしれませんが・・・)。

日本書紀の記述では、継体天皇六年十二月条に、倭国が百済に任那4県を賜与したという記事があります。

高句麗の攻撃で失った領地を任那4県で補ったわけですが、任那は小国の連合国家であるのです。

このような出来事は国々を不安にさせてしまいます(連携がくずれるというか、作為的な部分も感じられますが)。

そして磐井の乱でこの不安は決定的になるのではないかと思います。

つまり筑紫君磐井は倭国の未来を託すべく相手として新羅を・・・(賄賂をもらって新羅についても意味ないですよね^^)。

大和の継体天皇はその相手を百済に。。。

どちらにしても悲運なのは任那ですね(>_<)



そして日本書紀の記述です。

せっかくだから漢文も含めて(オッサンわかりませんが^^;;;)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
継体天皇二五年(辛亥531)冬十二月庚子《五》

冬十二月丙申朔庚子。葬于藍野陵。

或本云。天皇廿八年歳次甲寅崩。而此云。廿五年歳次辛亥崩者。

取百濟本記爲文。其文云。大歳辛亥三月。師進至于安羅營乞。

是月。高麗弑其王安。又聞。日本天皇及太子皇子倶崩薨。

由此而。辛亥之歳當廿五年矣。後勘校者知之也。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



継体二十五年の条に、継体天皇の死因の記述で始まります。


ある本には継体天皇は継体二十八年甲寅に亡くなったと書かれているけど、25年の辛亥と書いている。

これは百済本紀に

531年(継体25年)「太歳辛亥の3月軍進みて安羅に至り、乞屯城を営む。この月高麗、其の王安を殺す。又聞く日本の天皇及び太子・皇子、に崩薨りましぬ」

と、、、

記事があるので、「これが継体王が亡くなった年と判断すれば継体二十五年が辛亥の年にあたるので、継体天皇の亡くなった年と判断しました。」

そして言う、「良く考えれば後世、この真実が解けるであろう。」

早い話が太歳辛亥の3月に安羅の乞屯城に進駐していた継体天皇を高句麗が太子・皇子諸ともに殺したのだと。

そして継体天皇が安羅の王「安」なのだと。

つまり継体の子の安閑・宣化天皇も継体とともに死んだという事です。

そして、後のよく考える人が真相を明かすのだとか・・・^^

ちなみに

日本書紀では欽明天皇が即位したのは538年となっていますが、「上宮聖徳法王帝説」やそのほかの資料では欽明は531年に就任したことになっているそうです。

安閑天皇や宣化天皇の在位期間が短いのもうなずけます。

大和に入るまでの20年間ですが、安羅の王なら継体天皇がどこにいたのか明白ですね!

また、高句麗の攻撃で死んでしまうのも不思議ではありません(陸続きですから)。

半島の安羅に大和に九州と、忙しく動き回った継体天皇。。。最後は母国安羅の地で高句麗軍と相対して敗れたのでしょうか?

継体天皇にオッサンは哀愁を感じます。


欽明天皇は蘇我氏の妃を娶ります。そして武烈天皇以来の旧豪族の中に蘇我氏の名前が登場してくるのがここよりですね。


今日は少し長かったですが、お付き合いいただいてありがとうございますm(__)m




では(^_^)/
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おっちゃん、こんにちは!妄想歴史ご苦労様です!

㊗妄想ブログ?開設1周年記念! おめでとうございます!
ネタ探しなどご苦労もあるでしょうが、無理せず息のなが~い
ブログを楽しみにしております(^_^)v

さて、梅雨ですねぇ・・・今のところ来週末は天気もちそうかな?
どこか出撃予定思案中です・・・

おっちゃん、落ち着きましたら、いつでもお供致しますよ!(^_^;)

白海さん、こんにちは^^

祝!!一周年ヽ(^。^)ノ

白海さん、ありがとうございます。去年の今頃から始めて一年ですわあ^^

オッサン、忘れておりましたが嬉しいですぅ~~(~o~)

梅雨の合間のオテントウ様の下での釣行ですね!

了解しました^^

週末に狙いをつけて、策謀活動にはいります!!(爆)


いつもありがとうございます。








プロフィール

八爺

Author:八爺
59歳になりました。生活不詳、引きこもり、世間の事は何もわかっていない勉強中のジジイです。

我家にやってきた猫のタマの一年と一ヶ月の記録に同じく「台風からの訪問者」はちの成長と釣りとたまに歴史のお話と愚痴を記事にしていきますので、よろしくお願いします^^;

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