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蘇我氏への疑問。

蘇我氏をサカ族だと言ったのは栗本慎一郎氏でした。

サカ族はシャカ族。シャカ族の王子はお釈迦様^^

だから蘇我氏は仏教を日本に持ち込んだのでしょうか???(この時点でかなり妄想入ってますが)

私の妄想の中でずーっと頭を痛めている問題です。

私の中の歴史の整合性を考えると、これほど矛盾している事はないのですが・・・

今日はこれを考えてみましょう^^

まずは蘇我氏のおさらい(もちろん妄想史ですが^^;)

蘇我氏、当時の渡来系支配部族。本拠地関東。一時期筑紫の倭王でアマ氏を名乗る。

「倭王は、阿毎多利思比孤阿輩き弥(あまたりしひこおおきみ:天足彦大王)、王の妻はき弥(きみ)、太子は和歌弥多弗利(わかみたふり)」と男王。

当時は、女帝推古天皇の時代。ちゃんと妃と王子も実存していると「隋書」にあり、推古天皇が実在したかどうかもこれを見るとわかりません。。。


ちなみに東アジアでは、騎馬民族の突厥帝国が、隋と対峙していたのです。

その突厥帝国の天子は、隋に国書を送っていて、その文面は、「天より生まれたる大突厥の天下聖賢天子のイリキュルシャドバガ・イシュバラ可汗、書を大隋皇帝に致す。」とか^^

そしてこちらが遣隋使での倭王(阿毎多利思比孤)から隋皇帝煬帝に宛てた国書の文面、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)。

突厥帝国と当時の日本。場所は違えど酷似していませんか?この文面。。。

本店と支店の違いはあっても、基本方針は同じだよ!って言ってるように見えますね^^



欠史八代の(第6代)考安天皇の名が日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)とタリシヒコとタラシヒコで似ていますね。

日本書記の記述に蘇我馬子が推古天皇に「葛城の地は、私の本貫なので賜りたい。」と語る所があるのですが・・・

この考安天皇と関係しているのかと思っています^^このことから葛城王朝が存在していたと解釈しています(私の妄想ですよ)。

倭王になり都(支店といっても良いかも)を明日香に定める。つまり西征(筑紫からは東征)する。

基本、蘇我氏の進行は日本の北からと理解しています。筑紫に関しては、秦国(宇佐八幡のある所)に蘇我氏と物部氏の軍事拠点(これは空想で妄想です)があったのではないかとみています^^

物部氏は九州から東征し、蘇我氏は北の国から西征するイメージです。ただ、継体天皇が越の国から20年かけて大和に入ったのですが、これが蘇我氏と繋がりがあるのであればちょっと違ってくるのですが・・・

この辺はまだ自分の中では曖昧です^^;;;

今の所、彼ら蘇我氏は沿海州の日本道より北陸以北の地に渡来する(鮮卑系部族もしくは突厥)。

そしてこの時、新羅系秦氏の花朗軍団(物部氏)と合同する(「隋書」にある裴世清の記述、昼と夜の王)。

そして、

物部氏(新羅系秦氏の花朗軍団)。東ローマ帝国兵団の一部がソクド人の傭兵として新羅まで東進した末裔で軍神ミトラ(古代日本の古神道?)もしくは景教を信仰する新羅の最強兵団。

前にお話した事のある古代の高速道路の跡であるソイルマーク。

このソイルマークは分断しながらも畿内から出羽国の酒田津まで続いていたとかです。。。

山形県から畿内まで!?・・・これが騎馬の道です^^途中に屯倉(ミヤケ)を置いたのは蘇我馬子です^^

馬を配置し武器を揃えて戦時に供えます。平時にも便利な施設であります。そして、要所には水城を置き軍事の要とします・・・

すべては隋(唐)との決戦に供えたもの?

そして・・・聖徳太子ですが。。。

蘇我氏の施政を合作した架空人物(実存の可能性も捨て切れないが可能性は低い)。。。

と・・・

大体、このあたりが私の妄想です^^


またまたですが、文面長過ぎの感アリで・・・


肝心の疑問の話ができませんでした。。。(>_<)


これはまた次回ですね^^;;;




では(^_^)/


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八爺

Author:八爺
59歳になりました。生活不詳、引きこもり、世間の事は何もわかっていない勉強中のジジイです。

我家にやってきた猫のタマの一年と一ヶ月の記録に同じく「台風からの訪問者」はちの成長と釣りとたまに歴史のお話と愚痴を記事にしていきますので、よろしくお願いします^^;

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