FC2ブログ

ジジイの生活向上委員会

Top > 歴史 > 第二ラウンドの鐘がなる(T_T)

第二ラウンドの鐘がなる(T_T)

前回の続きの一環として二度目の挑戦をしたいと思います^^;;;

では、サクッと!!

まずは、交易という観点から物の伝達について考えて見たいと思います。

例としまして絹(シルク)を用います。

ここで日本からの直接の交易の相手国ですが、これはなんといっても中国で異論はでないと思います。

そして相手国の中国ですが、どこと交易をしていたのか?なのですが、これはシルクロードの名称もあるように西方のオリエントやヨーロッパという事になります。

絹の場合はローマ帝国ですね。

漢民族の西方への憧れというのは、かなり古く、北の匈奴が草原の道と関わって力を持っていた紀元前からと言われる方もいるぐらいに古くからあったらしいのです。

7世紀の前半、玄奘三蔵(三蔵法師)のインド行きを記した大唐西域記(学僧の報告記でまことに素っ気ないもの)を玄奘が所属する慈恩寺がすぐに大唐慈恩寺伝という書を発行して、西域にまつわる色々な事を書いて大ヒットしたのだそうです。

西遊記に始まる西域への民衆の憧れは、すでにこの時(唐の時代)には定着していた訳です。

シルクロードの始まりは紀元前にさかのぼります。前漢の武帝は、建国当初より脅威となっていた北方の遊牧民匈奴に対抗するため、使者を西方の月氏のもとに派遣します。

武帝の命を受けて西方に赴いた使者は、10年以上も苦難の旅を続けたものの、結局、月氏と同盟を組むための交渉は失敗に終わります。

ただ、使者の報告により、それまで未知であった西方の事情が伝えられ、西方の文明的な国々の存在に当時の漢の人々は大きな驚きを感じ、以後国家的な規模で中国と西方世界との通交が開始されることになったとの事です。

紀元一世紀、周りの国々を呑み込んで巨大な帝国となったローマは、その戦略品をローマ都市に持ち込むことにより、国際交易商人が多く集まるようになります。

中国のシルクがヨーロッパに送られ始めた時、シルクの価格は黄金に匹敵するほど高かったので、当時のローマ帝国は値段の高いシルクの輸入代金を支払うために財政赤字に陥ってしまいます。

このため、元老院が中国のシルク服装品の販売やそれを着ることの禁止令を出すのですが、中国のシルクが大好きな貴族たちの強い反対を受けて、ローマ帝国はやむなく、禁止令を撤廃したという経緯があるほどです^^;

そして、富の蓄積により贅沢品の絹の需要が激高し、その絹の生産地の中国後漢には、オリエントから国際交易商人が多く渡来してくるのです(現在の商社の○○支社のような、この交易商人達が後々の歴史のキーポイントです^^)。

後漢は、北の匈奴との戦闘に対処するために俊敏なアラブ馬を求め、絹を求めるローマ帝国と、アラブ馬を求める後漢による絹馬交易が始まってゆくのです。

アラブ馬の効力もあってか、後漢の武将班超は匈奴を破り、94年までにはトルファン盆地、タリム盆地のほぼ全域を制圧します。
和帝から西域都護に任ぜられた班超は西域の50余国を服属させ、遠くローマまで部下を派遣しようとしたことが伝えられています。
しかし、班超が帰還してわずか5年の後、西域と中国との交通はまた遮断され、これ以後、漢の西域経営は有名無実化してしまいます。

やがて、166年ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの使者が、後漢に渡来します。

シルクロードの交易権をめぐって、隣国のパルチア王国と度々争っていたローマ帝国は、パルチア王国との戦闘に対して後漢の加勢を求めます。

しかし、後漢は、匈奴を北アジアから駆逐した騎馬民族鮮卑(この鮮卑族は、後に魏の国で強大な力をつけていく部族です)の度重なる攻撃により疲弊し220年滅びてしまいます。

この後、後漢が分裂し魏・蜀・呉の三国時代へ突入していき、東アジアの中国北部を支配した魏が、ローマ帝国と絹馬交易を後漢に替わっておこなうため、日本列島での繭生産経営に乗り出してきます。

「魏志倭人伝」に蚕から糸を紡ぎ絹織物をつくっていたことが書かれており、239年には魏の明帝に卑弥呼が国産の絹を献上したことが記されています。

弥生時代の遺跡で、絹が出土しているのは、福岡県比恵、有田、吉武高木などの北九州だけです。

3世紀、倭人は朝鮮半島から北九州に渡来して、絹を生産して魏に貢いでいたのでしょう。その邪馬台国の卑弥呼には、魏の軍旗を与えられて、その上、魏の軍事顧問も送られていたのだそうです。。

九州産の絹が、魏に渡りそして西域の果てのローマまで届けられた可能性は十分ありますよね^^

前回のお話の続きになりますが、これらの事情等で邪馬台国が九州にあるという説の根拠にもなっています。

さて、

ここまでで絹の交易の流れをざっとお伝えしましたが、東の果てにある日本からどうやって目的地まで無事に運んでゆくかというお話をしたいと思います。

今まで匈奴、フン族、鮮卑、突厥、柔然等の騎馬民族の名称が登場した訳ですが、聞き覚えの無い名前ばかりで混乱しそうですが^^;

南船北馬。

船を使って航海するにも海賊がたくさん出没する海を渡っていきます。

馬を使って隊商を組んで行くにも、騎馬民族は黙って通させてはくれないでしょう^^

彼ら騎馬民族は、国の概念が希薄なので土地に対する執着のようなものは持ってはいないのですが、、

自分達の縄張り意識はあるのです^^

ですので、ここを通りたければそれ相応の物を置いていけ!!だとか

またそれを見ていた別の部族が、こっちにも置いていけ!!だとか・・・

それをくれ!!とか、あれをくれ!!とか・・・^^;;;

自分達の感覚では山賊ですが、、、彼らにとっては大事なしのぎ(稼ぎ)でもあるのです。

そこで交易商人は、専属の部族との専属契約を交わすのです。

恒久的に隊商の傭兵として彼ら騎馬民族がバックアップするわけです。

そのうち身内となっていく者もいるわけです^^

交易商人達はより強く、より広大な地域を保持している部族を選んで彼らと共に行動するようになっていくのです。

大きな部族は、傘下にたくさんの交易都市を持ち、たくさんの兵を動かして道中の安全を保障するのです。

そんな彼らが交易商人と共に古代の日本に来ていても、不思議な事ではないですよね^^

ずっと前の記事に登場させた、唐軍と対峙した騎馬民族は、こういう人達だったのです。

私見ですが、河内王朝辺りから彼らのような人達が日本に来ていたと思っています。

とくに継体王朝時代は、西はカスピ海から東は最果ての日本?までの広大な領土を誇った突厥帝国の全盛時代とつながってくるのです^^


という訳で物の伝達一つしかお話できませんでした(>_<)

実はこれより前に、今日は昼以降に、家の用事をしながらダラダラと5時間近くかけた長編大作があったのですが、、、
時間超過なのかログが切れてしまって・・・

書き込んだ記事がすべて消えてしまっていたのです(T_T)

5時間経てば、最初に書いた事など・・・もう頭の片隅にも残っておりませんでした(残念;;)

今後は気をつけようと思います^^;

というかこの瞬間も気をつけ無いと・・・




では(^_^)/
















関連記事
スポンサーサイト



コメントの投稿

Secret

No title

。。。。。大変でしたね!!

私も書き終わった記事をうっかりすべて、消してしまったことがあります。
その日はもう、書く気力が失せてしまいました。

5時間の大作!!すごいです。。。

この記事、また夕方落ち着いたら、ゆっくり読みにこようと思ってます。(^^)

No title

先ほどのコメント。。の続きです。

騎馬民族。。の話は全く知りませんでした。(騎馬民族すら知らなかった
汗)

後半、すごく興味深い話でした。

そこまで考察できると歴史も楽しいんだろうな。。。(*^_^*)

またの記事が楽しみです。(釣りの話も楽しいです。)

いつもありがとうございます^^

himariさんも経験していらっしゃるのですね^^;;

自分は今回で2度目でした。最初のはブログを始めたばかりの頃でしたので、何がなんだかわからなかったのですが・・・(爆)

今回はさすがに落ち込みましたね^^;;;

でも少しずつ小出しにしていけるし、もっと良い書き方ができるかもしれないしで、今はこれでも良かったような^^

騎馬民族と日本は、実際、あまりイメージがでませんよね^^;
実は自分もそうなのです。

山地が多く、起伏に激しい日本の大地に馬ってどうだろう?・・・と^^

たぶん、大昔の彼らも同じ意見を持っていたのではないかと思います^^

彼らが出した一つの答えが、あの幅広の古代の道路ではなかったのか?っと妄想しています。

彼らの真価が発揮できるのは、やはり関東以北の大地ではなかったのかと思います。

少しずつですが、記事にしていきますね^^

ありがとうございます。

プロフィール

八爺

Author:八爺
59歳になりました。生活不詳、引きこもり、世間の事は何もわかっていない勉強中のジジイです。

我家にやってきた猫のタマの一年と一ヶ月の記録に同じく「台風からの訪問者」はちの成長と釣りとたまに歴史のお話と愚痴を記事にしていきますので、よろしくお願いします^^;

月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
最新記事
最新コメント
最新トラックバック