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どこも行く事がないので紀州釣り論考

紀州釣りは江戸時代に紀州藩士の間で広まり、藩主も奨励したと伝え聞きます。
武道の修練の一環としてとも言われています。

さて、そこで紀州釣りなる文献ですが、これがなかなか出てこないという事ですが、
同じような意味合いで庄内釣りというものがあります。

こちらは文献もあり、それを参考にすることも出来ます。
(もちろん、技術に関する事は、まったく別物なので無理ではありますが)

要は、当時の事情が庄内釣りの文献から伺えるという事になります。

庄内三代目碧水の館というブログを書いておられる方の資料を参考にして、自分なりに考えてゆきたいと思います。

もちろん江戸の御三家と外様大名の違いを考慮しないといけないのは言うまでもなく、江戸時代の武家諸法度やもっと言えば、秀吉や信長の時代まで遡って、当時の事情を考慮しないといけないと思います。

ここまで考えて・・・ちょっと気が萎えた感が無きにしも非ずなのですが、、、(^^ゞ
まあ、こんなブログとやらをしないと気力もわかないであろうと思われるので、歴史のおさらいをしてみたいと思います(笑)

そこで、まず自分が目を引いた文章を引用します。

1707年(宝永4年)
庄内藩の支藩の松山藩主第二代酒井石見守忠豫(タダヤス 1657~1735)公が温海温泉の湯治に行った際に"浜遊び"と称して釣りを行った事が、温海組の大庄屋本間八郎平衛の覚書に出てくる。これが文献による庄内の最古の釣の文献である。生類哀れみ令で有名な五代将軍徳川綱吉存命中(在職1680~1709)の事であるからして、面白い。この当時江戸で釣り好きの者が、釣りをしたことが発覚して牢屋につながれていた。東北も裏日本の庄内の様な田舎では、幕府の意向も届かずそんなに厳しくは無かったのであろう。

次に目を引いた文章が

江戸時代の武士たちは腰に大小の刀を差し3間5尺(黒鯛竿=約7m)の延べ竿数本と餌や道具と魚入れ(はけご)それに食料を携えて鶴岡の城下より山越えで往復28~80kmの日本海の磯の釣り場まで徒歩で行ったのです。ちなみに享和元年(1716)の文献に加茂磯(鶴岡市加茂地区往復28km)に釣に行くと云うのがあります。

引用終わり

ちなみにフナ竿やタナゴ竿やらが江戸時代に登場するのですが、これらは継竿だったのですね。
これがなぜ、継竿になったのかというと、徳川綱吉の頃の「生類哀れみの令」が関係しているのです。
つまり、堂々とノベ竿をさげて、これから魚を釣りに行くとはできない庶民が苦肉の策で出来上がったのが継竿の原点であると言われてもいるのです。(これは江戸に住む庶民の事情)

次に武家諸法度ができた背景を考えて見ます。
秀吉の刀狩の例を出すまでもなく、天下統一を果たして、権力を得れば次にする事は権力の維持に努めるのが歴史の常道であります。

つまりは諸侯が武力の維持に努める事は、当時の国家反逆罪であったわけです。
江戸幕府に楯をつけない状態を維持することがご政道であったという事を常に念頭に置いていくとなんとなく見えてくるものがありますね。

この文章にある藩主の反骨精神も伺えて、当時の庄内藩が幕府何するものぞ!!といった気概も見えてきます。

当時は城の生垣一つも修理をする場合も幕府に気兼ねをしてなかなか出来なかったような話もあります。
(城の防御力強化とみられて、詮索されるのを嫌ったのでしょう)

また、江戸時代の鎖国もキリスト教の流入を防ぐためと言われますが、実情は、当時の日本では採れなかった硝石(鉄砲等の火薬の原料)を諸藩が手に入れては困るので、長崎の出島だけを例外としてとりしまったといわれます。

ここまで書いたのを要約すると、庄内釣りは藩主自身が気に入り、奨励もしたというところです。
よって藩の侍の上下に関係なく広まったのであると思われます。

次に紀州藩に移ります。

紀州藩は江戸の御三家でもあります。
つまり幕府側の筆頭でもあり、自らが既得権力の側の立場で考えていくのが筋であり、保守思想が強かったであろう事は容易に想像できるところです。

もう一つ加えたい事があります。
当時の侍が帯刀している刀についてですが、これは藩主からの賜り物で藩主からの命令なくして、公に抜刀する事はできなかったのです。

当時の武士は、常に「松の廊下」状態であり、もし、抜刀したなら切腹、お家御取潰しであった訳です。

幕末に現れた剣豪はみな武士以外の階級の人であったと言われます。
つまり、藩主お抱えの武士団は徳川時代の長きに渡り、公に剣の腕を磨くなどの事はできようもなかったわけです。

戦国期の宮本武蔵にしても寺のお抱え小僧の「たけぞう」であったのです。
これはまた別の事情があるのですが、、、今回は割愛です^^;

槍や剣や弓であるとか戦の鍛錬などは当時はできなかった、もしそれが外に伝われば藩の取り潰しにもなり得る大問題であったわけです。
現在における時代劇のようなチャンバラ劇は、講談師であるとか歌舞伎の影響が多々あって現実の事柄が変わって伝えられているといわれます。

公に武士の鍛錬とは言いたくても言えない事情があり、紀州釣りが武士の鍛錬で奨励するなど、痛くもない腹を探られるような事は到底考えられないわけです。

そこで考えられるのは、食料調達手段としての紀州釣りと考えてしまうのですが(^^ゞ
つまりは、武士は食わねど高楊枝なので・・・
紀州に住む庶民達が広めたのではないかというのが、自分の考えであるのです。

確たる理由は前述したぐらいしかないのですが、元々紀州は、根来や雑賀党やら住民はいたって反骨精神あふれる土地柄なので、そちらの方が自分には理にかなうのですが、、、

いかがでしょう(笑)

と、
思いっきり端折って、適当に答えをだしてしまいました(汗)
このような事情を言い出すと限がないので一番わかり易い部分でまとめましたのをご了解願います(苦笑)





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八爺

Author:八爺
59歳になりました。生活不詳、引きこもり、世間の事は何もわかっていない勉強中のジジイです。

我家にやってきた猫のタマの一年と一ヶ月の記録に同じく「台風からの訪問者」はちの成長と釣りとたまに歴史のお話と愚痴を記事にしていきますので、よろしくお願いします^^;

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